篠竹刈り
今日は久しぶりに本拠地の庭で作業をしました。
今日の作業は、篠竹の刈り取りです。
今まで、草刈機やヘッジトリマーで試行錯誤してきましたが、今日は一本一本コツコツと剪定鋏で切りました。
この方が切った竹を揃えて積んで、担いで運べるので片付けが楽だし、切った竹が垣根などの資材として使えるのです。
剪定鋏で切るのは大変そうと思われるかもしれませんが、左手で竹を倒すように力を加えながら右手の鋏を入れると裂けるようにサクサク切れます。これは剪定する時や枝を捌く時にも使えます。
重機を使えば速いのでしょうが、持たざる者なりに頑張っていきます。
7年目の岡恒・剪定鋏
刈り取った篠竹。わら縄で縛ってあります。
以前の記事に書いた「わら縄で枝をまとめる方法」がここでも役に立ちました。
明日も続きをやります。
雑木の苗たちは次々と葉が出ています。
地上部と地下部のフラクタル構造
昨日の朝にかけて、庭の図面や見積書を書きました。
私が頭の中でぼんやり思っている事の中に、庭づくりとはあまり関係ないようでいて、物凄く重要な要素かもしれない事があるので今回ブログに書いてみます。
(振り返って読んでみると、ほぼ見聞きした事の受け売りでしたが、自分なりにまとめる事が大事だと思いますので書き残しておきます。)
以前の記事で、木の剪定をするときに考えている事を書きました。
記事に書きたかった内容を簡単にまとめると、
「木の枝が、幹から枝先に向かって徐々に細くなり、しなやかな枝ぶりである事。木の全体を見ても、部分を見ても、いずれも自然な木の形を損なっていないこと。」を意識しながら剪定している。
という事です。
街路樹についての記事を書いたときにも触れたのですが、特に市街地域において樹木は無理に小さくまとめられぶつ切りにされがちな傾向があります。
この傾向は家庭の庭においても同様だと思います。
土地の境界や電線・構造物の保守のためには致し方無い事と思う一方で、スペースに余裕があるのならば、ぜひとも木をのびのびと育ててほしいという思いもあります。
木の枝ぶりはエネルギーの流れだと思います。
木を道路や河川に置き換えて考えてみると、分かりやすいかもしれません。
幹線道路や河川が途中でいきなりぶつ切りになったらどのような事が起きるか?
そんなことが起きれば、交通は大混乱し、大洪水が起こります。
木の場合も太い枝をぶつ切りにすれば、そこから強い枝が何本も伸び、エネルギーが暴走しているような姿になってしまう事が多々あります。当然木の健全な生育も阻害されると考えられます。
木を剪定するという作業においては、自然なエネルギーの流れを阻害しないという視点も大事なのだと思います。
この意識が、人間が見て美しいと感じる「自然な枝の構造」を作る事につながるのではないでしょうか。
少し飛躍しますが、樹木をグリーンインフラとして捉えた時も、樹木が自然な構造をもち健全に生育している事が、非常に重要な意味を持つのだと思います。
ここで、グリーンインフラとしての樹木の機能として考えられるものを挙げてみます。
①枝葉を広げ、夏季の地表温度を冷涼に保つ
②まとまった広さを持つビオトープ(生物生息空間)同士を結ぶ回廊的役割(生物多様性の保全に寄与)
③住民の精神的充足をもたらす
④雨水を地面に涵養する経路を保持する。(レインガーデンと同様)
樹木が健全に、自然に枝を広げていなければ、これらの機能は大幅に目減りしてしまうのではないでしょうか。
こう考えると、木を剪定するという事は、ただ単に「庭木を綺麗にする」というだけの作業ではないと思えてきて、なんだかやりがいが増す気がします。
④の「雨水を地面に涵養する経路を保持する。」機能は、目に見えない地下の事なのであまり意識される事が無いかもしれません。
しかし、ゲリラ豪雨や洪水が増加している昨今において、土地の保水機能についてのキーワードはtwitterなどでも多く見られるようになっています。
「レインガーデン」「流域治水」などの言葉がそうです。
枝の自然な構造と同じく、地下に水が染み込んでいくネットワークの構造も、今後真剣に考えていかなければならないのではないかと思います。
地下に「水が緩やかにかつダイナミックに染み込んでいくネットワーク」が存在しない、あるいはその機能が損なわれている事が、水害を深刻化する一要因なのかもしれません。
以上が、庭づくりの意義について考える中で思ったことです。
これらのことをなおざりにしない事が、心地よい庭を造ることに繋がると信じています。
音楽は目を閉じて聴ける。
仕事や生活の事で頭がいっぱいになった時、音楽や映画、美術品を見たり聞いたりする事はやはり素晴らしい事だと実感しています。
目を酷使しがちな生活の中では、目を閉じて楽しめる音楽や朗読がなによりの癒しです。
一時だけであっても、現実から気をそらしてくれるものは大切だと感じます。
最近聴いている音楽です。
Spotifyで聴いて、本当に気に入ったものはレコードで手に入れば買うようにしています。
PINO PALLADINO AND BLAKE MILLS / NOTES WITH ATTACHMENTS
CHICHIBU / 笹久保伸
LADIES IN THE CITY / NIGHT TEMPO
PROMISES / FLOATING POINTS ・ PHAROAH SANDERS
LOVE DANCE / DAN COSTA IVAN LINS
UMA ELMO / JAKOB BRO
FERNANDO ROSA FUNKY BASS LINES INSTAGRAM (プレイリスト)
林哲司 WORKS(プレイリスト)
耐久性と自然のうつろい
庭を作ろうとしています。
そこで、思ったことを長々と綴ります。
屋外に設置する垣根、木の柵など、風雨や日光にさらされるものを作るとき、一番に考えるのは耐久性と安全性の事だと思います。
防腐処理をせずに竹垣などを作り、3年くらい経つと、大分わびさび感あふれる見た目になります。それこそが良さなのですが。
これが建物の柱であったり、屋根であったり、構造を支える部材であった場合、腐朽したり虫害に遭う事は、建っている物の根幹を揺るがす事になるので、当然私たちは徹底的に対策をせねばなりません。
昔から、住まいや構造物を作るというのは生きる為の必死の取り組みであり、よりよく生きる為にこそ人間は技術を発達させてきたのだと思います。
庭に作る色々なものも同様、最近では耐久性の高い素材のエクステリア部材も沢山ありますし、見た目もよく作られており感心するばかりです。
安心して生きる為に、これらのものは無くてはならない物だと思います。
一方で、すべてが強固にかためられた、確実性に溢れた世界というのも、どこか息が詰まるような気がします。
そして、強固で確実だと思っていた構造物も、大災害によりいとも簡単に崩れ去ってしまうという事を毎年のように見せられています。
建築・土木・保守管理に携わっている方に対して、実際それらの仕事に守られた環境に生きている私は、頭が上がらない立場です。
しかし、今の街を成り立たせている建築・土木には無い視点が、造園の中にはあるのではないかとも感じています。
農業や林業や水産業など、自然に正面から取り組んで生業とされている方からしてみれば、鼻で笑うしかない浅薄な考えかもしれません。
人生何事も、どちらかの壁に寄りかかれば安心という事はない。という事を私は常々思います。
流動する物事のなかで、よりよい生を実感するために、一方の考えに寄りかかることなく柔軟に生きていく方が良いというのが私の考えです。
そんな大層なことを思いながら、これから作る(かもしれない)庭の事を考えています。
腐朽するものの方が雰囲気は良いに違いないし、自分の庭であれば適材適所でスムーズに腐ってしまうものも選ぶはずなのですが、人の庭となると苦しい所です。(実際仕事でやるとなると、防腐処理・対策は必ず行います。)
私も40を超え、まだまだこれからという気概は持っているつもりですが、もっと若かった頃に比べると体力や回復力が落ちている事は否めません。
そんな事を考える時、私と一緒に朽ちてゆくものが庭に慎ましく存在している事が、何とも言えず安心するというか、気分が落ち着く気がするのです。
「衰退」「腐朽」「錆び」、そういった言葉は、ある意味で、徐々に周囲のものとの境界が曖昧になり「溶け込んでいく」という意味を含んでいるような気がします。
そして、生や死も、今の自分の状況と区切りのない、ひとつづきのものであるように思えます。
言い古されている事かもしれませんが、青臭く率直な私の考えです。
そんなイメージを抱きながら、このような考えをふんだんに盛り込んだ、原理主義的な庭を自分の所に作ってみたいと思いました。(多分やっている人は既に沢山います)
木を切っているときに思うのですが、
例えば伐採は、土地に劇的な変化をもたらすようでいて、実は植生の世代交代を手助けして結果的に土地の様相を保っていたり、
木々を手付かずで保存することは、土地を保っているようで実は遷移を手助けしていたり、
何事も変化しないものは無く、ミクロな視点でばかり見ていると見失う物もあるように思います。
【読書の感想】街路樹は問いかける: 温暖化に負けない〈緑〉のインフラ
読んだのはしばらく前になりますが、読書の感想になります。
「街路樹」という言葉を聞いて、 どのようなイメージを持たれるでしょうか。
都会を潤すオアシスのような存在。
夏は日差しを遮り、季節ごとの姿は街に良い景観をもたらす。
そんな役割が街路樹には求められているのだと思いますが、 なかなか現実はうまくいっていないように思えます。
なぜなら、街路樹にはぶつ切りにされ残念な姿になった木が多いように感じるからです。
私自身も、造園会社に勤めていた時は街路樹をぶつ切りに切った経験があります。 経験があるというより、 むしろそのような施工の方が多かったです。
なぜそうなるのか。
考えられる理由をいくつか挙げてみます。
・交通との兼ね合いで安全なスペースの確保が必要
・電線との兼ね合いで枝を詰める事が必要
・落葉へのクレームに対処するため思い切った剪定が必要
・そもそも、そのように切るよう指導される(自治体の意向?)
・公共物なので無闇に伐採できない
簡単に表現してしまえば、「色々なリスクを回避する為には、 切り詰めて剪定するのが最も望ましい」という事だと思います。
こうなってしまう一番の原因は、「 街路樹は、枝を伸ばせるスペース不十分な場所に植えられている事が 多い為」だと思います。
今回読んだ本「街路樹は問いかける」では、 グリーンインフラとしての街路樹の理想的な役割として、「高い樹冠被覆率による温暖化防止」を挙げています。「 樹冠被覆率」とは、 都市の面積に対して樹冠が覆っている範囲がどれだけあるかという割合になります。
この数値が大きいと、 木陰が広い範囲に広がっていることになります。
切り詰められた街路樹の樹冠被覆範囲は当然狭く、 グリーンインフラとして十分な役割を果たしているとは言えません 。
また、切り詰められた木の姿というのは本当に痛々しく、 自分の町がディストピアになってしまったような悲しい気持ちにさ せられます。
これは、剪定を行う施工業者だけの問題ではないと思います。
そもそもの道路計画と植栽計画から、 先々の樹木の生育を見越した計画をなすべきですし、 剪定等の保守管理にもはっきりとした方針や十分な教育が必要です 。
また、市民の意識が高まり、自ら動き、行政を動かすような作用も必要です。
電線や道路の狭さを考えると、道のりは険しいように思えますが。
これは「誰が悪い」というような問題ではなく、 社会全体で取り組んでいくべき事だと思います。
この本には、ドイツ、フランス、米国など欧米諸国や、 日本の1部都市におけるグリーンインフラとしての街路樹管理への取り組みが興味深くまとめられています。
これを読むと、 少なくとも私の居住地は大分出遅れていると思わされますし、 私個人が描いている理想が欧米では着々と実現しているような雰囲気に圧倒されます。
余談ですが、木をぶつ切りにすると、 木は反発するように強い枝を伸ばし、樹形を回復しようとします。(樹種によりますが、街路樹に関しては大体そうなります。)
この働きには「頂芽優勢」「オーキシン」「サイトカイニン」 といった言葉が関わってきます。( 高校生物でも触れる内容らしいですが、私は全然覚えていません( TT)
ぶつ切り後、 一斉に伸びた強い枝を手入れするのは本当に大変です。
私自身、そういった辛い作業をいやというほどしてきましたので、 いつかその辺りの事も記事にしたいと思っています。
コンパクトで読みやすく、充実した内容でした。
岩波ブックレットの他の本も読んでみたいと思います。
昔の写真を掘り返して
過去作ったものの写真を掘り返しています。
写真を見ると、昔の喜びや苦しみが色々と思い出されます。
特に、何かを作ったりした時の写真は、辛さと楽しさを同時にかつ激しく感じた記憶を呼び起こします。