庭の日誌

庭仕事がライフワークです。

耐久性と自然のうつろい

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庭を作ろうとしています。

 


そこで、思ったことを長々と綴ります。

 


屋外に設置する垣根、木の柵など、風雨や日光にさらされるものを作るとき、一番に考えるのは耐久性と安全性の事だと思います。

 


防腐処理をせずに竹垣などを作り、3年くらい経つと、大分わびさび感あふれる見た目になります。それこそが良さなのですが。

 


これが建物の柱であったり、屋根であったり、構造を支える部材であった場合、腐朽したり虫害に遭う事は、建っている物の根幹を揺るがす事になるので、当然私たちは徹底的に対策をせねばなりません。

 


昔から、住まいや構造物を作るというのは生きる為の必死の取り組みであり、よりよく生きる為にこそ人間は技術を発達させてきたのだと思います。

 


庭に作る色々なものも同様、最近では耐久性の高い素材のエクステリア部材も沢山ありますし、見た目もよく作られており感心するばかりです。

 


安心して生きる為に、これらのものは無くてはならない物だと思います。

 


一方で、すべてが強固にかためられた、確実性に溢れた世界というのも、どこか息が詰まるような気がします。

そして、強固で確実だと思っていた構造物も、大災害によりいとも簡単に崩れ去ってしまうという事を毎年のように見せられています。

 


建築・土木・保守管理に携わっている方に対して、実際それらの仕事に守られた環境に生きている私は、頭が上がらない立場です。

 


しかし、今の街を成り立たせている建築・土木には無い視点が、造園の中にはあるのではないかとも感じています。

 


農業や林業水産業など、自然に正面から取り組んで生業とされている方からしてみれば、鼻で笑うしかない浅薄な考えかもしれません。

 


人生何事も、どちらかの壁に寄りかかれば安心という事はない。という事を私は常々思います。

流動する物事のなかで、よりよい生を実感するために、一方の考えに寄りかかることなく柔軟に生きていく方が良いというのが私の考えです。

 


そんな大層なことを思いながら、これから作る(かもしれない)庭の事を考えています。

 


腐朽するものの方が雰囲気は良いに違いないし、自分の庭であれば適材適所でスムーズに腐ってしまうものも選ぶはずなのですが、人の庭となると苦しい所です。(実際仕事でやるとなると、防腐処理・対策は必ず行います。)

 

 

 

私も40を超え、まだまだこれからという気概は持っているつもりですが、もっと若かった頃に比べると体力や回復力が落ちている事は否めません。

そんな事を考える時、私と一緒に朽ちてゆくものが庭に慎ましく存在している事が、何とも言えず安心するというか、気分が落ち着く気がするのです。

「衰退」「腐朽」「錆び」、そういった言葉は、ある意味で、徐々に周囲のものとの境界が曖昧になり「溶け込んでいく」という意味を含んでいるような気がします。

そして、生や死も、今の自分の状況と区切りのない、ひとつづきのものであるように思えます。


言い古されている事かもしれませんが、青臭く率直な私の考えです。

 


そんなイメージを抱きながら、このような考えをふんだんに盛り込んだ、原理主義的な庭を自分の所に作ってみたいと思いました。(多分やっている人は既に沢山います)

 

 

 

木を切っているときに思うのですが、

 


例えば伐採は、土地に劇的な変化をもたらすようでいて、実は植生の世代交代を手助けして結果的に土地の様相を保っていたり、

木々を手付かずで保存することは、土地を保っているようで実は遷移を手助けしていたり、

何事も変化しないものは無く、ミクロな視点でばかり見ていると見失う物もあるように思います。