庭の日誌

庭仕事がライフワークです。

ぐったり疲れて考えた事-庭の管理とは

昨日はとにかく土を掘った1日でした。

体力の限界を感じながら思ったことを書いてみます。

内容にまとまりがありませんので先にまとめを書いておきます。


【まとめ】

①緑を駆逐する手入れはしんどい

②燃料や資源が高いので出来るだけ自然の力を利用した庭の管理がしたい

③都会・街=人間の脳  自然=人間が分析しきれない性質

 

昨日の作業では、絨毯はがし以外にも、草刈・竹の根掘りの作業を行いました。


草刈はエンジン刈り払い機を使いましたが、竹の根掘りは根切りバールやスコップを使い、人力でやりました。


根のかたまりを十数個は掘り出したでしょうか。大して作業が進んでいないのに、ぐったり疲れました。


こういう作業を人力でやるというのは並大抵の事ではないと思います。


普通だったらバックホーユンボ)を使うのだと思いますが、あえて辛い方法でやってみるのも面白いと思いました。


傍から見たら「なにやってるんだあの人は」となるかもしれません。

そもそも、私がこの庭を手入れしている様子も傍から見ると奇妙に見えるのではないかと思います。

周りの人は何も気にしていない可能性が高いので、私自身が私を奇妙に捉えているのかもしれません。


山の中でもない場所で、刈った竹や木の枝を積んで置いたり、地面に草や細かい枝葉を敷き詰めたり、炭を撒いたり、穴を掘ったり溝を掘ったり、木は大きくしっぱなし、草は全部刈らないで残してあるし、、、、

客観的に言ってこの土地は、庭というより空き地に見えると思います。


私がこの庭を手入れするうちに、自分の中で掲げるようになったテーマの一つに、「いかに燃料や重機の力を使わずに、自然の作用に任せながら庭の管理を省力化できるか」というのがあります。(チェンソーや刈払い機に頼り切りですが、、)

その試行錯誤の結果が、少しずつこの庭の姿に現れてきているような気がして、自分としては手ごたえを感じているのですが、ご近所の方がどう感じられているかは分かりません。

 

庭の手入れというのは、緑を駆逐するというか、草を撃滅するというような過激な形になりがちです。

しかしそれでは、完全に人間の独り相撲になってしまいますし、そういう管理は非常に多くのエネルギーを使います。


庭や緑地の手入れが人対自然の対立構造になってしまうより、自然の働きをうまく利用しながら、何らかの形で持ちつ持たれつ共存していけたら良いと思っています。

 


話は変わりますが、どこかで養老孟司さんが、「都会の街というのは人間の脳の中で作り出されたものだ」というような事を言われていました。


私なりに解釈すると、人間が作る街というのは、「主に平面と直線で構成され、あらゆるものが区切られ、分析され、理解されるもの」と捉えられます。


一方で自然は、周囲のものとの境界があいまいであり、互いに絡み合い、融合して、共存しているものであり、そこにはグラデーションがあります。


こう考えると、境界で区切られた街の中で、自然風の庭を残すというのは、矛盾した行為なのだと思います。


そして、平面的・直線的・分析的な思考で庭や自然と向き合うと、うまくいかないような気がしています。